十九世紀の半ば、日本が西欧の文化と接触して以来、日本の知識人には、ずっと論理についての劣等感がつきまとっている。そして多くの人びとが、日本語が非論理的である、と思いこんでいる.はたして日本語が非論理的だろうか?
ヨーロッパの言語に較べて、日本語が非論理的であるという印象を与える原因のひとつは、翻訳による日本語にある。明治以来の日本の知的伝統は、ひとくちに言えば翻訳文化であった。そして現在も日本は世界有数の翻訳出版国である。おびただしい翻訳が生まれ、それが社会で指導的な地位を占めてきた。しかも、一般に翻訳の日本語が、生硬、難解であることには定評がある。一度読んでも意味の通らないことも珍しくなく、原書を読むほうがずっと解りやすいことすらある。こういう難解な翻訳は文学書には少ないが、論理的であるべきはずの哲学·思想·社会科学関係の翻訳には、ごく普通に見られる。
たとえ了解不能な部分が含まれていても、翻訳された日本語の文章の中には、とにかく学ばなければならない重要な内容、社会の指導的原理が含まれている、と長いあいだ日本の知識人たちに考えられた、そのため、その文体を批判し、このような文章が日本語だろうか、と疑問を持つよりも、逆に、日本語が論理的でない、と断定する方向がしばしば選ばれた。
ここで翻訳の技術的な問題に触れるならば、従来ヨーロッパ語の文章の中の単語や成句に、対応する訳語を与え、語順を日本語風に並べ変えれば、それで翻訳ができる、と考えられてきた、センテンスの中の語順は並べ変えるが、センテンスの順が入れ替えない。しかし、語順を変えなければ日本語にならないのなら、文章の順序もうまく入れ替えなければ日本語らしくならないはずである。翻訳文の難解さは、このセンテンスの入れ替えを行わないという方法に原因することが多かった。それは不十分な翻訳で、そのような翻訳を手がかりに、日本語が論理的でない、と言われては、日本語のほうが迷惑する。
日本語の論理性-すなわち、このばあいは、いわゆる日本語の非論理性が日本人に意識されるようになったキッカケが、外国語との対比、翻訳にあるとするなら、言語の論理と翻訳との関係は、再検討する必要がある。日本人が、“論理”と考えているものは、ヨーロッパの言語とその文章が表現するのに適しているものは、ある“特殊の論理”ではないだろうか?もし、そうなら、それが日本語で完全に表現できないのは当然である。つまり、論理というものは、それを表現している言語と離れることのできないものである。日本語には、日本語特有の論理があるはずである。
ここで人間の言語活動について、出発点から考えてみよう。人間の日常生活に使う言葉における論理は、きわめてインフォーマルなものだが、しかしどんな場合でも、言葉がひとつの筋道を辿(たど)らなければ、伝達は成立しない。言語に内在ずる論理性とは、何か“線”のようなものと考えられる。話者に対し,聴き手は、言葉の筋道をを辿りながら、理解を進めていくわけだが、聴き手との関係の親疎によって、話者の筋道のつけ方が違ってくる。お互いが未知の人間であるばあいは、道はしっかりと舗装去れていて、聴き手がその道から踏み外さないようにしなければならない。論理は厳密に構成されていけなければならない。その典型的な例は、法律の条文の表現である。法律の条文が相手にするのは、不特定の、さまざまな立場にある人びとで、しかもその受け手は,時にはまったく対立する観点に立ってその条文を読むであろうから。法律の条文ほどではなくても、話者と受けての親しさが保証されていない場合には、表現には十分に配慮して、誤解をおこす余地のない言葉を選ばなければならない、言葉の緊密の論理が、その結果として生ずる。
これと反対に、受け手がごく親しいときの話者は、要点を述べるだけで、誤解が生ずることはない。言葉のムダも少なくてすむ。一般に、お互いが熟知している集団の内部では、論理学でいうところの形式論理は嫌われる。その代表的な例は、家族内の会話である。そこでは、第三者が聞けば何のことかまったく解らないような、省略の多い、飛躍の多い言葉がお互いに使われるが、ちゃんと意味は通じている。いわゆる形式論理とは別の論理が、そこには作用している。このような親しい間柄での言葉の筋道は、常に完全な線状である必要はない。話の要点以外の部分は、風化して、線に欠落が生じ、点の列になる。
人間には、こういう点をつなげてひとつの線として感じ取る能力が、誰にも備わっている.このような“点的論理”が了解される場では、線的論理のかたくるしさは野暮なものとして軽蔑される。むしろ省略の多い表現,言い換えると,多様な解釈の可能性のある表現のほうが、含蓄のあるおもしろい言葉として、喜ばれる。点を線につなげて理解する操作事態が、一種の言語的創造である。
日本語は、このような点的論理をもった言語である。ヨーロッパの言語は、陸続きの外国をもった国ぐにで発達した。が、日本語は海で限られた島国で発達した言語である。そして、同一の慣習をもつ、単一の民族が、同一の言語を長いあいだ使っていると、言葉についての相互の了解度は、きわめて高くなる。つまり、家族の間でかわされる言語の論理が、ひろく社会で流通している、と考えてよい。そういう日本語の論理は、基本的には、線的性格のものではなく、点的性格の方がより発達したものである。
以上のことから明らかなように、日本語が論理的ではない、と考えるのは、ヨーロッパ語の線的論理の尺度で、日本語を計るからである。成熟した言語社会においては点的論理が発達する——という原理を認めるならば、日本語もそれ自体の論理を持っていることが承認されるだろう。